頭の中のさまざまのこと

すきなこと、考えていること

買いものと手の話

はじめて指輪を買った。自分のために。

私のためにたくさんサンプルを出して試させてくれた店員さんは、つけて帰ってもいいですか、と尋ねた私に、もちろんですと答えてくれた。指輪の光る手をぎゅうと握りしめると、店員さんは保証カードに日付を書き込みながら、うれしいですねとも言ってくれた。うれしいと私は答えた。

 

 

 

 

 

私は内孫だ。

母方の祖父母と10歳頃まで同居していた。我が家は当時はまだ(今でも!)珍しかっただろうが父が姓を変えたのに加え、初孫だったこともあり、祖父母はそれはもう私を可愛がった。

祖母は、子どもが泣いているのにほかにすることがあるか!と母を一喝するようなひとだったらしく、私のケアを生活の最優先事項に位置づけた。それは心身のケアだけではなく、「もの」に関してもそうだった。

祖母はさまざまなものを私に買い与えた。絵本も、服も、ぬいぐるみも(買ってもらった高級な猫のぬいぐるみは、私が名づけて、今も私と一緒にいる)。スーパーなどの床に寝転び全身で抗議する子どもの映像をテレビで観るたび、「私と妹もこういうことした?」と母に尋ねると、母は「あんたたちは、こうなる前におばあちゃんが飛んできて買ってあげてたからね」と答えた。

そうやってでろでろに甘やかされていたくせに、ひとに何かを買ってもらうのは本当に苦痛だった。実は今でもちょっとそうだ。私は小学生の頃からお金に関してシビアで、外食しようと言われれば「全員で幾らになると思っているのだ。そんなことに金を使うな」と答えて場を凍りつかせ、

──いま思えば、外食は、普段食事をつくる側のひとが、誰かが自分のためにつくってくれる料理を口にできる貴重な機会であり、我々子どものだけではなく自分自身のためという面もあったに違いない…本当に申し訳なかった…──

誕生日に欲しいものはあるかと聞かれれば「無い」と言い捨てて溜息をつかれる、全く可愛げも物欲もない(ように見える)子どもだった。無い、以外に答えようがなかった。欲しいものと買ってほしいものは違うと当時から考えていたけれど、ではどのようなものが後者にあたるのかの答えは持ち合わせておらず、しかし断じて両者は異なるものだと信じていて、けれどもそれを説明することもせず、結果、ただワガママなだけの子どもであった。

私が身の回りのことにとにかく無頓着だったせいで、母も私に世話を焼かざるを得なかった。中学は制服がなかったのだが、学校へ着ていく服に関して主張をしたのは、ゴシックパンク系の友達に感化された一時期だけで、あとは用意されたものをただ着ていた*1。高校生の頃でさえ、いや大学生の頃でさえそうだったかもしれない。それで生活はできていたから、それ以上考えることはなかった。だって生きるのに必要なかったから。

 

 

 

ツイッターを使うようになって、色々なひとたちの色々な考えに触れて自我が芽生え始めたのは、ここ数年のことだ。

もともと物欲は薄いほうだと思っていたが、それは無知からくるものだったのかもしれない。知らないものを欲しがることはできない。ものを買うことは、それによってもたらされる様々な「こと」を買うことでもある。友達は少数精鋭、生粋のインドア派である私はクソ狭い世界で生きており、それを自覚させてくれたのはインターネットだった。買いものによって自分の意思を示すひとや、自分を肯定するために何かを買うひと、色々なひとがそこにはいた。何かを求め、選び、手に入れることにそんなにたくさんの意味や意義があるなんて知らなかった。買うことによってそれ以上の意味を提供する商品がたくさんあるのも知らなかった。私は自分が今まで意思を持って何かを買った経験がほとんどないことに気づいた。

 

働き始めてから少しずつ歌舞伎などのお芝居を観に行くようになったので、かたちのないものにお金を出すことにはだんだん慣れていった。けれど実際に手に取れる、かたちあるものを買うのは苦手だった。基本的に自信がないのだ。経験値が少ないし、失敗したくないから。失敗してしまうと、質量をともなったそれが手元に残り、自分の外側からまざまざと現実を突きつけられてしまうのが怖い。だから、それは評判がいいよ素敵なものだよ似合うよいいチョイスだねと言ってほしくて、それをめちゃくちゃに褒めているレビューとかを読みまくってテンションを上げまくってからでないと決心できない。高価なものなら尚更だ。友達についてきてもらったことさえある(その節はありがとう)。けれどこれは訓練次第だとも思っている。こないだはジャケットもボディクリームもタートルネックもひとりで買えたし、昨年はキングダムハーツ3だって買えた。ゲームって自分で買えるんだなと思ってめちゃくちゃ感動した。ゲーム、買ってもらうか譲ってもらうかしかしてこなかったから。届いたゲームは段ボールに入ったままとりあえず抱きしめた。

 

 

 

 

で、話は変わるんですけど、これは別途書こうかなとも思っていたんですけど、私自分の見た目に全く自信がないんですよね。特に、手。小さくてぽちゃぽちゃしていて赤ちゃんみたいだから。爪の形も変。母も妹のもスラッとしているのに。私だけ不恰好。なのでずっと自分には指輪はふさわしくないと思っていた。指輪はもっと素敵な手の素敵なひとに身につけられるために生まれてきたのだと思っていた。だから私には縁がないし持つべきではないし持ってはいけないし、なんならそれが指輪やそのクリエイターに対する礼儀のようなものだとすら思っていた。

 

そんなわけないのに。

だから指輪の力を借りようと思ったのだ。ちょうどいいと思った。少しずつだけど服とかも買うようになって、訓練の成果を感じていた。あまり好きになれない自分の手を、まあまあいいんじゃない?くらいには思えるようになりたかった。体型や体毛などの見た目を無理に変えようとせず、ありのままの自分を愛する運動、ボディポジティブというやつだ。インスタで運動家たちをフォローしまくっている。みんなサイコーだぜ。とはいえ、今回も漏れなく褒め褒めレビューを検索しまくってから行った。

MARIHAの『願い事のリング』。ファーストリングだからシンプルなのがよかったし、願いをかけるたびに増やしていくというコンセプトも素敵だと思った。

 

その日はソウルメイトと東京都現代美術館石岡瑛子展に行っていて、たくさんの美しいものを見たのも大きかった。ソウルメイトと別れて、ふと、今日、これから買いに行ってしまおうか、と思った。思いついたらわくわくしてきて、電車に飛び乗った。光ひしめくジュエリーフロアからMARIHAを見つけて、ジュエリーたちと同じくらいにこにこしたひとたちの間を縫い、ショーケースを眺める。店員さんが話しかけてくれた。指輪はじめてなんですと話すと、店員さんは小指から始める方が多いですよと言って、0号を出してつけさせてくれた。しかし小指は私にとってまあまあましなんじゃない?的なポジションの指なので(ほかの指よりちょっと細いし、爪もここだけ細長くていい感じなのだ)、敢えて自信のない人差し指か中指かで検討することにした。

むに、と指の肉がはみ出る。うう、ものすごく無様に見える。指の肉付きがよすぎる。私はやっぱりふさわしくないんじゃないか、と思ってしまいそうになる。でも、いや、絶対にそんなことはないはずなのだ。誰でも、私も、指輪をつけてもいいし、何を着てもいいし、そうしなくてもいいに決まっている。絶対、そう。指がちょっと不恰好だからって何なの?それをどうにかしたくて買いにきたんでしょ?うるせ〜〜〜〜〜〜!!!知らね〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!しゃらくせえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

人差し指に金色が光った。これだな、と思った。

 

 

 

 

親指と人差し指を擦り合わせると指輪の感触がするのがなんとも不思議だった。その金色は帰りの電車の窓を走る街灯やネオンをいちいち素直になぞっていた。めちゃくちゃいい。もっと早く買えばよかった。

自分に色々なことを許したりするのはちょっと勇気が要るけど、なかなかどうしていいかんじだ。こうして私はまたひとつ訓練を積み、更に最高になった。次は大きな石のついた指輪を買おう。

 

 

 

 

 

ちなみに私が願ったのは「年末のカウントダウンジャパンフェスが成功しますように」です*2

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*1:その友達はゴシックパンクがとてもよく似合っていて、感化されたのを悪いことだとは思っていない。結局服の趣味は変わらなかったけど、誰かのファッションを素敵だなと思った最初の案件だった。今でもどこかで楽しく生きててくれたらいいな

*2:これを書いている2020年12月21日、中止が発表されました。指輪は悪くない。関係者各位、ギリギリまで頑張ってくれてありがとう。でもやっぱり悲しくてお菓子を爆食いしたら翌日しっかりお腹を壊しました