とりとめのない話だ。
高校のときの友人たちと、毎年グループ展をやっている。
毎年お盆の時期に市のギャラリーを借りて展示会をやり、その打ち上げの席で次のテーマを決めてしまう。今年で4回目だった。
毎回全員がひとつの同じテーマに対して取り組む。写真を撮る友人、花を生ける友人、絵を描き映像を撮る友人、書をしたためる友人、などなど。
同じテーマについて考えているはずなのに、違う人の中を通ると、ぜんぜん違うものが出てくる。このあたりまえがなんとも不思議で、いつもちょっと楽しい。
作品が異なるということは、アプローチが異なるということだとも言える。
横浜のみなとみらいに、『白い花』というパブリックアートがある。
https://minatomirai21.com/shop/1965
私はこの作品が好きだ。風が吹くとゆらゆらと揺れる。
風を目撃しようとする時、方法は色々ある。煙をくゆらせてみるとか、風船を持つとか、あるいはセンサーか何かを置いて、風の流れをデータで捉えようとすることもできるだろう。あるいは風に揺れる木々を絵に描くとか、風をテーマに詩を書くとか。『白い花』は風の向きや強さによって、揺れる方向も程度も違う。それは風の向きや強さを可視化しているのであり、作者の風に対する一つのアプローチのように思う。私は『白い花』を通して風を目撃することができる。私は『白い花』を見るたび、ものの見方は一つではなく、また、表現方法も一つではないのだと思い出すことができる。
ところで、感性は長く放置するとインクの乾いた万年筆みたいになる。私はこれを恐れて毎年グループ展に参加しているようなところがある。感性を刺激するのにはインプットを行うのが手っ取り早い。そして私の場合アウトプットにはインプットが必要で、即ち私にとってこのグループ展とは、気の置かない友人たちとのかけがえのない交流の場でもあり、半年以上の時間をかけて心を動かす強制イベントでもあるのだ。
どんなものをつくろうかなあとぼんやり考えながらものを見る、聞く、話す。感じて、考えることで、自分の心が死んでいないことを確認できる。私はこういうものを見てこういう感想をもつ人間なのだな、とか。私は自分について他人事のように確認したり発見したりする。インクがじわりと溶ける。
日々はあまりにも忙しなく、疲労とはそのような思考を奪うのに最適で、情報の賞味期限は短い。0.1秒ごとに誰かがインターネットの海に言葉を流すこの日常において、半年という時間は充分すぎるほど長い。長すぎて忘れてしまいそうになる時間の中で、私はときどき思い出したように来年のテーマを考えるのだろう。あれかあ、あれねえ、どうしようかな。またギリギリまでなんにもやらないんだろうな。私たちは小学生のように搬入日までの残り日数をカウントしながら、どこまで宿題が進んでいるか報告し合っては焦り、笑い、助け合い、そしてときどきカネのちからでなんとかしたりするのだろう。これは大人の8月31日なのだ。大人って最高だ。
本当にとりとめのない話になった。
これは今年のグループ展の搬入中に休憩する私。